会社案内

社長メッセージ

“もの造り”にかける情熱は、使ってくださるお客様の喜び、幸せがあってこそ、持続できるもの。時代は変わっても、いつもお客様にご満足いただける“もの造り”を目指して。 代表取締役社長 里吉 賢司エッセイ「ものを造るということ」 1997年広島市文化財団主催 第17回市民文芸募集事業受賞作品

「拝啓。私は長崎の田舎で理容院を営んでおります‥‥‥‥‥永年使い馴れた御社製の電気バリカンがこのところ調子が悪く、一度見て戴きたいと思いお送りしました。ずいぶん前購入した製品ですので、修理も不能と思います。もし、現在も電気バリカンを製造しておられるようでしたら、御社の同じ型の製品を購入させてもらいたく‥‥‥‥‥よろしくお願い申し上げます。」

「‥‥‥‥‥ご郵送いただきました電気バリカンとお手紙を拝見いたしました。製品に打刻してある製造番号を見て驚きました。昭和二十一年製の製品です。私が生まれるよりも前、日本敗戦の翌年に造られた製品です。‥‥‥‥‥五十年の長きにわたって私どもの製品をご愛用いただき、心よりお礼申し上げます。アルミニウム製のケースが、永年のご愛用で指の形にすり減っております。物を造るものにとりまして、これほどの冥利を味わうことはございません。当社創業者である私の父もすでに三十五年ほど前に亡くなり、長髪の流行など世の風俗の変遷には克てず、私の決断によって十五年前に電気バリカンの製造を廃止いたしました。
電気バリカン発祥の地として栄え、最盛期には十社近くあった広島の電気バリカンメーカーも、今では一社が辛うじて残るだけとなりました。

お送り戴きました電気バリカンを分解し、内部を詳細に検査いたしましたが、電気配線が朽ちているほかは、修理によってまだ
使用に耐える状態と判断いたしました。当社は現在、食品機械ほかを製造しており、電気バリカンの修理が出来るのは今では社長の私だけとなりました。電気バリカン廃業を決断した際、最小限の部品は各少量ずつ保存しておりますので、今後も私が健在である限り、電気バリカン修理のご依頼におこたえしたいと考えております‥‥‥‥‥」

修理のすんだ電気バリカンに私からの書簡を添えた小包みを発送してしてしばらくのち、再び長崎から手紙が届いた。

「‥‥‥‥‥新品が送られてきたとばかり思いましたが、思いもかけず修理の終わった電気バリカンが返送され、とても嬉しく感謝しております。職人にとって、永年使い馴れた道具というのは、手にもなじみ、なかなか手離しがたく愛着を感じるのです。
まだまだ使用に耐えるとのこと。ありがたいことです。‥‥‥‥‥修理代金は無用との有り難いお申し出を頂戴いたしましたが、修理代金にかえて些少ながら寸志を同封させていただきました。社員の皆さまにお茶菓子でもお配りいただければ幸甚の至りであります‥‥‥‥‥」

この、長崎からの手紙が届く二十五年前のこと。大学卒業を前にして進路に迷っていた私は、父の代からのお得意先である大阪の理美容器具商社のH社長を訪問した。その十年前の父の葬儀の際、棺のなかに眠る父にむかって、語りかけるような弔辞をくださったその社長は、進路を決めかねる私を鋭い視線で見据えて、

「父親の代から世のなかに製品を供給した責任は誰が受け継ぐんや? 物を造るという事業というんは、ワシらのように商品を仕入れて右から左へ卸売りするような商売とはわけがちがうんや。それだけに苦労も多いやろし、また誇り高い事業でもある。製品の保守や修理、物を造る者には忘れちゃああかん責任というもんがあるんや。それから逃げたらあかん。出来る限りの応援はするさかい、オヤジの事業を継いで全力を尽くしてやってみてくれへんか」

と、真剣な眼差しで私を諭された。

すでに斜陽期に入っていた電気バリカンの製造事業だったが、この社長の言葉をよりどころに、私の長い長い模索が始まった。

父の代から九州は、お得意先が抜きん出て多い地域だった。幼い頃、強いなまりの九州弁を話す客がしじゅう父のもとを訪れた。宿も満足に無い時代。遠来の客は自宅に泊まり込んで、父と枕を並べて深夜まで仕事の話にふけった。そのような客からだろうか、四斗缶に詰め込んだ生きた伊勢エビや羽毛のついたままの雉子(きじ)がはるばる鉄道便で送られてくることがあった。

父の工場で造る電気バリカンを愛用して下さる零細な理容院や、理美容器具商のお陰で、私たち家族はその日の糧(かて)を得ることができ、姉弟は十分な教育を受けさせてもらった。

「九州に足を向けて寝ちゃあいけん」

九州への愛着と感謝をこめて語っていた父の言葉を思い出す。

福岡、佐賀、熊本‥‥‥。私は大学生の頃から、電車を乗り継いで九州全土に散らばる理美容器具店をセールスにまわった。理美容器具店はこの地方では「道具屋さん」と呼ばれ、櫛(くし)やハサミ、シャンプー、バリカンなどを一軒一軒散髪屋さんに納めて回るつましい商売である。

鏡に向かうお客さんと愛想よく話こんでいた散髪屋の主(あるじ)は、待合椅子の片隅で小さくなって待つ道具屋さんには急に無愛想になって、ぶっきらぼうに細かい注文を言い渡すのである。

道具屋さんの店を訪ねるとその店主はたいてい留守で、しっかり者の奥さんがいそいそと店番をしている。
「ご主人おられますか?」
「さあ、さっきまでその辺チョロチョロしとんしゃったが‥‥‥また、一杯引っかけとるんやないとね? まだお天道さまも高いとに。ちょっとあんた悪かばってん、そのあたりの店ばさがしてみてくれんやろか?」

近くの飲食店で店主を探し当てると、昼間から焼酎を飲んで赤い顔をしている。無理に勧められて焼酎を呑みながらの商談が始まる。
「‥‥‥戦争がすんで世のなかが落ち着き始めた頃が、そりゃあ、一番よか時代じゃった。三度のメシが食えるようになったら人間次は外見ばい。散髪屋が次々開店して、何千円もする電気バリカンが月に二十も三十も売れよったと‥‥。
ばってん、こんごろは、なんちゅうても若い男が女ば出入りするパーマ屋へ行く時代ばい。バリカンで刈るっちゅうたら、頭かかえて逃げていきよるばい。ビートルズいうかね?髪ん毛ば女んごとなごうして、ギターかかえてテケテケテケテケッばい。九州男児も終わりやねぇ‥‥‥」

半日がかりの商談で半年溜まった売り掛け金を受け取ると、店主が次の注文書を書いてくれる。支払いは次の盆か正月である。いつまで経っても売り掛け金がゼロになることはない。その頃の九州の商慣習であった。注文の数は訪問するたびに少なくなっていった。

見渡す限りの九州平野。夕暮れの畑のなかを単線の電車が行く。回収した売掛金の入ったカバンをしっかり抱いた私は、行商がえりのおばさん達の声高な九州弁を間近に聞きながら、単調な電車の揺れにまかせて車窓にもたれた。将来への不安すらも、持ちあわせていなかった。

父親がそうであったように、私の事業は何度も商品を変えた。しかし、変わらなかったことは、一貫して製品を開発し、自分の商標の責任において物を造り、世に出すという作業だった。

思いのたけを小さなネジ一本にまで託し、丹念に梱包されて初めて工場から出ていく自社の製品は、何ケ月も何年も迷い迷ったあげく、やっと、したたり落ちた清冽な滴(しずく)のように思え、いとおしささえ感じる。

「お客さんに気に入ってもらえよ。可愛がってもらえよ」。

数えきれない失望をほんのわずかな成功の醍醐味に救われながら思いを続けて、いつの間にか私も大学生の息子をもつほどに歳を重ねた。

長崎から届いた五十年前の電気バリカンは、H社長のあの時の言葉をまざまざと思い起こさせた。コマ送りの写真フィルムのように、多くの人との出会いや、過去の情景が私の脳裏をよぎっていった。物造りの深遠にあらためて触れる思いだった。

H社長は大手の理美容器具商として、死の直前まで商売の最前線で陣頭指揮をとられ、昨年、故人となられた。

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里吉製作所について

食品の加熱・焼成を中心とする食品機械の開発・製作メーカーであると同時に、
『味感工房』ブランドの各種「(冷蔵・冷凍)お好み焼」など、鉄板焼き調理食品の量産、販売にも取り組んでいます。
当社独特の発想は、国内外でも評価を受けており、
「ものづくり日本大賞」(主催:経済産業省)を受賞しました。

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